鎌ケ谷の由来や、歩んできた歴史をご紹介します

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歴史探訪

千葉県鎌ケ谷市歴史探訪
鎌ケ谷市の概要
鎌ケ谷市は、県の北西部に位置し、船橋市、市川市、松戸市、白井市、柏市に隣接しています。北部には手賀沼に注ぐ大津川が流れ、南部には江戸川の支流真間川や、東京湾に注ぐ海老川の支流が流れています。市内には、東武野田線・新京成電鉄・北総鉄道の鉄道3線と道路網が発達しており、都心から25キロ圏内にあることから、首都近郊のベッドタウンとして発展してきました。豊かな農地や緑の環境をもち、市内には観光梨園が多く、県内有数の梨の名産地としても全国にその名を知られています。

鎌ケ谷のあゆみ
同市域に人々が住み始めたのは、今から23,000年前の旧石器時代になります。辺りには草原が広がり、ナウマン象やオオツノシカなどの動物が群れていたそうです。縄文時代の遺跡には、大堀込遺跡や根郷貝塚、中沢貝塚などがあり、竪穴式住居跡をはじめ、たくさんの土器や石器などが出土しています。古墳時代には、一本松遺跡や猿根台遺跡などの中沢川を望む中沢地区に集中して人々の生活した跡が見られます。そして、奈良時代の遠山遺跡(軽井沢地区)と大堀込遺跡(中沢地区)が発見されており、鎌やくぎ、刀子(ナイフ)などの鉄器と朝鮮半島から伝わってきた須恵器(陶器質の土器)、住居跡からは、かまどが発見されました。

鎌倉時代の房総は、武家政権の後背地として重要な地域でした。房総に力をもっていた千葉氏は、常胤(4代目)のときに領地を6人の子孫に分け与え、下総国相馬郡を支配していたのが千葉師常(相馬次郎)で、相馬郡は現在の我孫子市、柏市の一部、沼南町、鎌ケ谷市の北部あたりでした。

江戸時代になると現在の初富地区あたりは幕府直轄の牧場(小金中野牧、下野牧)となり、また、当時の鎌ケ谷、道野辺、中沢、粟野、軽井沢の5ヶ村は野付村として牧士の下で馬の世話や追い込みに従事していました。このころ、今の鎌ケ谷地区は行徳から利根川の木下海岸に通じていた鹿島みち(木下街道)沿いの宿場として栄え江戸の文化人、俳人、旅芸人等多くの人々が往来しました。現存する句碑や無形文化財「おしゃらく踊り」などに当時の情景の一端を知ることができます。

明治に入ると同市域は葛飾県の一部となり、その後、印旛県に統合され、明治6年(1873年)に木更津県と印旛県が合併し千葉県が誕生しました。
一方、明治2年(1869年)から「小金牧」の開墾が始まり、開墾着手順に初富(鎌ケ谷市)、二和、三咲(船橋市)、豊四季(柏市)、五香、六実(松戸市)と地名がつけられ、明治22年に市町村制の施行により、「鎌ケ谷村」が生まれ、ほぼ現在の区域となりました。

大正時代には、野田の醤油を輸送するため、野田−柏間に敷かれた軽便鉄道が大正12年に北総鉄道(現在の東武鉄道)として船橋まで延長され、本市発展の基礎を作ることになりました。戦後の昭和46年(1971年)9月に市制が施行され、鎌ケ谷市が誕生しました。この頃の人口は約4万5千人でした。津田沼にあった陸軍鉄道連隊が松戸−津田沼間に敷設した訓練用の軍用鉄道を基に新京成電鉄線がつくられ、その後も、高度経済成長と相まって急激な人口増加を続け、現在では人口10万人を超え、世帯数約3万戸という規模にまで発展しました。


鎌ケ谷の名前の由来
「鎌ケ谷」の地名の由来には諸説がいくつかあります。
・江戸時代、釜原と呼ばれており、釜原が鎌ケ谷に転じたという説
・昔、本市周辺に蒲(かば)や茅(かや)が自生していて、蒲茅が鎌ケ谷へ転じたという説
・鎌形の谷がある地から、鎌ケ谷へ転じたという説
などが代表的な諸説です。


鎌ケ谷の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓
 鎌ケ谷市郷土資料館
住所: 〒273-0124
千葉県鎌ヶ谷市中央1丁目8-31 [地図を見る]
電話番号: 047-445-1030
開館時間: 9:00〜17:00
休館日: 月曜日、祝日、年末年始
(月曜日が祝・休日の場合は火曜日も休館)
入館料: 無料







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